秀吉が、甥・秀秋を、子のいない毛利輝元の養子に送り込むつもりだ。
この情報に毛利家は危機感を深めた。
そんな事をされてはたまらない。
小早川景隆、毛利輝元はすぐさま、毛利元就の四男・穂田元清の長男であり、
英明の誉れの高い秀元を輝元の養子とし、秀秋は小早川家が引き受けた。
毛利本家は守られた。
毛利家の跡継ぎである秀元は、順調に出世し、豊臣秀長の娘とも結婚。
翌年には三位、参議となり、安芸宰相と呼ばれた。
ところが文禄四年(1595)、輝元に、長子・秀就が誕生した。
輝元は喜んだが、毛利家は困惑した。
すでに世継ぎは秀元と決めてある。
だが当然、血のつながる秀就こそ、
正当な後継者だとする者たちが出てくるであろう。
このままでは、間違いなく毛利家は、後継をめぐって二つに割れる。
重臣たちが思い悩む大広間に、
その時、まだ16歳の少年であった秀元が現れ、
こう言った。
「私はあくまで養子であり、筋目から言って、
今日産まれたご嫡男が毛利を継ぐべきです。
わたくしは後継のお話をご返上し、毛利の庶家として、
ご本家を守り立てていきたいと思います。」
こうして、お家騒動は回避された。
彼の水際立った行動は、毛利家中のみならず、
天下に賞賛されたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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