寛永の始めの頃(1624年か)の事だそうだ。
江戸に伺候した長門長府藩主・毛利秀元の元に、萩の輝元入道宗瑞(毛利輝元)より、
井原加賀、清水信濃の両名が使者として訪れた。
彼らの持ってきた書状の内容に、
秀元は仰天した。
『我が家は昔領するところ、十ヶ国に及びました。
ところが今入道(輝元)の身に及び、僅か二ヶ国よりの租税を以て、
累代の家臣たちにあてがわねばならなくなり、
上も下も悉く貧しさに苦しみ、軍役の負担に耐えることすら出来ません。
既に公の賦役に奉仕することが出来ないのなら、国を賜ってもまるで意味のないことです。
この上はぜひとも、二ヶ国の地を将軍家にお返しし、
どうにかして宰相殿(秀元)の計らいで、
我が毛利家が滅びないように頼みたいと考えている。』
あまりのことに秀元はすぐに幕府重臣・土井利勝にこれを相談した。
利勝からこれを聞いた徳川秀忠はすぐに秀元を呼び、この件について相談をした。
秀忠は言う。
「はてさて宗瑞殿にも困ったものじゃ。隠居した者が領地を返上すると言ったからとて、
そのようなことが出来ようか。宰相殿、そなたには何か考えはあるか?」
「はっ。この事は毛利家の意思ではなく、輝元入道一人の心配に過ぎません。
しかしこのまま放っておけば、毛利家中にいらぬ混乱を起こすことも考えられます。
…要は輝元入道を安心させれば良いのです。私に任せて頂けますか?」
秀元は秀忠の許可を得、毛利家の領地周防長門30万石余りを、
その頃の最新の基準で検地し直した。
するとなんと、新しく出た数値はそれまでの倍以上、76万石であった。
この事を聞いた輝元は、それなら毛利家はやっていけると大いに安堵し、
二度と領地返上のことは言い出さなくなった。
そして翌寛永2年、安らかな往生を迎えた、と言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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