大坂夏の陣の折、大坂方は古田織部と語らい、
『両御所(徳川家康・秀忠)が京・伏見御逗留の間に、洛中を焼き候へ』
とあった故、織部は自分の配下である茶道頭の宗喜に申し含め、
調議を廻らせていた所、
板倉伊賀守(勝重)はかねてからこう言ったことに心を懸けており、
法度を厳しく申し付けていた。
この時、尾張宰相義直卿の家臣、甲斐庄三平(庄三郎?)、今井伊兵衛両人によって、
火付けを二人搦め捕り、成瀬隼人を以て言上した。
伊賀守はこれを請け取り、糾明して同類四十三人を捕らえ、
それから七日の内に三百余人を検挙した。
そして彼らの棟梁は古田織部であり、磔に懸けられ、彼の徒党の者共も尽く罪科に行われ、
洛中安静となった。
この織部、先の冬の陣では幕府方の御供をし、
味方の事を聞いて、矢文を射て大阪城内に告げている事を、
権現様はご存知であったが、あえてご存知無き体になされ、逆に利用したのだという。
これは反間(間者)を用いられる、御名将の趣深さである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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