天正6年、播磨の国の別所長治が、織田信長に反旗を翻し、
三木城に立て籠もると、
羽柴秀吉は信長の命を受けて、大軍を率いてこの城を攻めた。
この時、秀吉は諸士を前に、金で山道が描かれ白い輪違いの紋のついた赤い母衣を示し、
「この母衣を望むもがおれば、贈ろう。」
と言った。
ここに脇坂安治が進み出て、
「御母衣に恥はかかせません。」
と申し受けた。
その日、安治はこの母衣を掛け、三木の城下にて敵と槍を合わせ首を取った。
秀吉はその働きに感じ入り、
「今後、その母衣の輪違いを汝の家の紋にすべし!」
と言った。
これにより、赤き旗に白の輪違いが、脇坂家の紋となった。
この頃、同国神吉の城主・神吉民部が、別所に同心し三木に加勢した。
これに秀吉は、神吉城を取り巻き攻め立てた。
この時、脇坂安治大手の木戸口まで攻め寄せた所、壁下の場所で鉄砲で兜を撃たれた。
安治はたちどころに目が眩み地面に倒れた。
これを見た宇野伝十郎は、安治を抱きかかえ引き退こうとしたが、
ここで気がついた安治は、
「この程度の負傷で退くのは口惜しい。」
と暫く休んでから、一番に大手の口から城に乗り入れた。
伝十郎も安治に続いて乗り入れ、これを始めとして秀吉軍の多勢が一気に押し破り、
ついに神吉城を攻め落とした。
この時、安治25歳であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!