大和国は、京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、
国侍が相互に自立の志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、
大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。
さて、織田信長公が、上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。
順慶と松永については後に記す。
その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、
『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。
それより二条の屋形に取り詰め、信忠公も御生害遊ばされた。
しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。
そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』
との内容を申してきた。
順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも、
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」
との旨を申し上げた。
しかしここで、松倉右近(重信)が、こう申した。
「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、
彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。
定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」
そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、
案の定、秀吉公が、中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、
順慶は使者を遣わし、明智に対して、
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、
お頼みに成るとの御返答であった。
そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時、筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、
敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
筒井順慶は、信長公の時に、
「相替わらぬ大和の大将である。」
と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、
天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。
そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を、
給わり御越になった。
そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は、何れも秀長の家来として成り置かれた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
→ 洞ヶ峠、筒井順慶
ごきげんよう!