布施左京進という大和国の国人は、
越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も、互いに筋々の働きを協力しあっていた。
ところがこの布施左京進が病死すると、
その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力から、
その所領の方々を、切り取られるような状況になった。
この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、
布施へ使いを以って、このように申し越した。
『布施氏は、我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、
当面の計策として、和談し従った。
され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は、皆、筒井の元に参り振舞いをした。
その座席に箸尾氏は先立って参着したが、
その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した。
「布施は、我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」
これに対し布施は怒り、
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない! 我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。
その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った。
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。
その上、武士として偽りなく有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし、
「上座はありえない。」
と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる事となった。
それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、
実際には、布施氏も大和の新庶にて自分の知行を、
現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。
先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、
筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、
布施殿も申し、またその家来の者達も口惜しんだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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→ 洞ヶ峠、筒井順慶
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