松永久秀の最期☆ | げむおた街道をゆく

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天正5年(1577)、松永久秀は、織田信長に反逆し、信貴山城に籠もる。
織田方は、嫡男・城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、

久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、

『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように。』

と言い含めていたのである。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。

 

久秀が、大坂の門跡(石山本願寺)に、加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、

夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大坂に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、

夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
 

そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、

また父子一所にて切腹したとも伝えられる。

これより大和一国は、皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも、天正11年(1583)5月13日に病死した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 洞ヶ峠、筒井順慶

 

 

 

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