関ヶ原の戦いで、石田・小西・宇喜多・大谷など西軍諸隊が総崩れになる中、
ただ一隊、陣を崩さずにいた島津勢は、壮絶な敵中突破、退却戦を敢行する。
陣していた北国街道から主戦場を南下して、
伊勢街道に抜けようという計画だったが、
西軍総崩れの報により前進する徳川本陣の傍を通り抜ける形となった。
交錯する部隊が島津勢と知った井伊直政・松平忠吉・本多忠勝の軍勢が追撃するも、
井伊・松平は負傷、本多忠勝も馬を撃たれて落馬する。
しかし、自軍も島津豊久、
長寿院盛淳らをはじめ、多くの兵を失っている。
ようやく徳川勢の追撃を振り切った島津勢だが、今度は行く手に別の軍勢が現れる。
南宮山方面から退却してきた長束正家や長宗我部盛親の軍勢である。
同じ西軍ではあるが、寝返りの可能性がある。
島津維新入道は両軍勢の去就を疑い、
伊勢貞成を撤退挨拶役として派遣し、
彼等の真意を問い質した。
使者に立った伊勢はまもなく一人の騎馬武者を連れて帰還する。
結局、長束・長宗我部勢ともに自軍の退却で一生懸命であり、
島津勢に害意はなしということであった。
同行した騎馬武者は長束正家の家臣であった。彼は言う。
「島津殿は地理不案内とお見受けする。
我が主正家はほど近き近江水口の領主。
地理に詳しゅうござる。
それがし、主より島津殿ご案内の役を仰せ付かった。
さあ、参りましょう。」
長束正家は自軍敗走の最中、遠方から来た島津勢のため、
親切にも道案内役を付けてくれたのである。
案内役は翌日の夜明けまで島津勢と行動を共にし別れている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!