伏見城の戦い☆ | げむおた街道をゆく

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伏見城名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
 

この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、

名古屋丸を固めていたという。
 

また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵がかためていた。
 

小早川秀秋は鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいため、

ともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず、
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す。」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、

平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
 

伏見城の東は、宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家など、一万人で攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
 

長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで、
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、

と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、

汝らに恩賞もあるだろう。」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して、
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ。」

と返答した。
 

こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、

寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も、

小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
 

松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠も供とともに、

三度まで突き出たが討ち死にした。

 

島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 太閤検地の実施、長束正家

 

 

 

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