織田信澄討伐☆ | げむおた街道をゆく

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天正十年(1582)六月、丹羽長秀は織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が、京の本能寺、および妙覚寺において、

織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
 

長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったので、これを大阪の守備に残し、

長秀・信孝は馬を走らせ、森口まで進んだ。

しかし、織田信澄は、やはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大坂に呼び寄せ、

長秀勢が明智との合戦に及べば、
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大坂に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家が、

この情報を察知した。

長束は、すぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。

長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと、

「信澄は大賊の婿であります!

更に長年それと親しんできました。

先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大坂に返し、

信澄の居る大坂城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
 

ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣・上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。

これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 太閤検地の実施、長束正家

 

 

 

ごきげんよう!