長束正家の丹羽時代☆ | げむおた街道をゆく

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長束藤兵衛藤原正家は近江の産。

彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上、天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、

ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米で召し出された。

 

この時、正家は、
「一人の食は、これで足ります。」
と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
 

しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、

正家は不満を漏らすこともなく、

むしろ諸臣を上回って、戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、

これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
 

長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、

棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣は、この人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、

後年、太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の素晴らしさであると、

徳川家康に物語ったそうである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 太閤検地の実施、長束正家

 

 

 

ごきげんよう!