上田主水(宗箇)は、初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、
本能寺の変後、明智光秀への関与を疑われた織田七兵衛尉信澄が、
大坂城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、
信澄が自害に及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が、
城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。
あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。
ここで、浅野紀伊守(幸長)は、かねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し、
「茶友達」との事で、身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。
実は上田は、その頃まで、さして名を得た功は無かったのだが、
浅野の屋敷の近隣にあった中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、
破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大坂の陣・樫井の戦いで、一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。
大坂冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、
但馬守の足軽が竹束の間から外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。
彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、
彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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