関ヶ原の決戦によって、西軍に属していた上田宗箇は牢人となった。
しかし、ほどなく家康から罪を許され、宗箇は浅野家に、1万石で仕える事となった。
しかし、古田織部の高弟でもあった宗箇は、
武将としてではなく、茶道の人として召抱えられた。
これは、新たに大領の主となった浅野幸長が、当時の上流社交の基本である茶道の基礎を、
浅野家に打ち立てるために、宗箇のその方面の才能を必要としたためであったが、
それは、浅野家のほかの家臣からの嫉妬と嘲笑を買うことにもなった。
彼らは、
「我が殿はさすがに大身である。茶坊主を万石でかかえるとは。」
と、あからさまに宗箇を侮蔑した。
幸長は、
「気にするな。一旦事あらば大いに働いてくれ。」
と、宗箇に脇差を与え、我慢するよう言った。
宗箇は、
「そのときは、この脇差に必ず、血をつけてご恩に報いましょう。」
と誓った。
浅野家の家中の者たちは、それをも、
「茶坊主が血をつけようとは。鼠の血か猫の血か。」
と、さらに嘲った。
やがて、大坂の陣が起こる。
和泉国樫井で陣を張っていた浅野家は、大坂より、勇将・塙団右衛門の部隊が、
接近との報を聞き、
一旦退却の方針を取った。
が、宗箇は、
「ならばわしは隠居する。隠居ならば軍令を守る義務は無い。」
と、自分の部隊だけそこに残った。
やがて、やってきた塙の軍勢に踊りかかった宗箇の部隊は、
先ず団右衛門の胸を槍で一突きに突いて重傷を負わせ、さらに一気呵成に攻め立て、
塙の部隊の武将の一人の首を、先の脇差にて取った。
この攻撃に、大坂方は壊乱した。
彼はここにて、浅野家随一の戦功を立てたのだ。
自らの働きを持って、武将、上田宗箇は、自身の面目を保ったと言えよう。
戦後、宗箇は、浅野家家中一同の前で、
「さてさて、ここにお集まりのお侍衆の中で、
この茶坊主よりも手柄を上げた方はいらっしゃるかな?」
とやって、さらに家中の憎しみを買ったのは、まあ、これはご愛嬌。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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