この茶坊主よりも、手柄を上げた方は☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

関ヶ原の決戦によって、西軍に属していた上田宗箇は牢人となった。

しかし、ほどなく家康から罪を許され、宗箇は浅野家に、1万石で仕える事となった。

 

しかし、古田織部の高弟でもあった宗箇は、

武将としてではなく、茶道の人として召抱えられた。

これは、新たに大領の主となった浅野幸長が、当時の上流社交の基本である茶道の基礎を、

浅野家に打ち立てるために、宗箇のその方面の才能を必要としたためであったが、

それは、浅野家のほかの家臣からの嫉妬と嘲笑を買うことにもなった。
 

彼らは、
「我が殿はさすがに大身である。茶坊主を万石でかかえるとは。」

と、あからさまに宗箇を侮蔑した。

幸長は、

「気にするな。一旦事あらば大いに働いてくれ。」

と、宗箇に脇差を与え、我慢するよう言った。
 

宗箇は、

「そのときは、この脇差に必ず、血をつけてご恩に報いましょう。」

と誓った。
 

浅野家の家中の者たちは、それをも、

「茶坊主が血をつけようとは。鼠の血か猫の血か。」

と、さらに嘲った。

やがて、大坂の陣が起こる。

和泉国樫井で陣を張っていた浅野家は、大坂より、勇将・塙団右衛門の部隊が、

接近との報を聞き、
一旦退却の方針を取った。

 

が、宗箇は、
「ならばわしは隠居する。隠居ならば軍令を守る義務は無い。」

と、自分の部隊だけそこに残った。
 

やがて、やってきた塙の軍勢に踊りかかった宗箇の部隊は、

先ず団右衛門の胸を槍で一突きに突いて重傷を負わせ、さらに一気呵成に攻め立て、

塙の部隊の武将の一人の首を、先の脇差にて取った。
 

この攻撃に、大坂方は壊乱した。

彼はここにて、浅野家随一の戦功を立てたのだ。
自らの働きを持って、武将、上田宗箇は、自身の面目を保ったと言えよう。

戦後、宗箇は、浅野家家中一同の前で、
「さてさて、ここにお集まりのお侍衆の中で、

この茶坊主よりも手柄を上げた方はいらっしゃるかな?」
とやって、さらに家中の憎しみを買ったのは、まあ、これはご愛嬌。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 宗固流の流祖、上田重安

 

 

 

ごきげんよう!