浅野幸長と伊達政宗は、最初、大変仲が良かった。
政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時、
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり、
政宗にとって長政は、「命の親」とも呼べる存在だった。
そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために。」と、
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが、
何故かその後、大変な不仲となった。
その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。
秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが、
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。
政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに、
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである。」
と怒った。
以来、両者は、君臣共に絶交となったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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