まこと山鷹野というものには☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、

それまでの甲斐より、加増を請け、

37万石の知行高にて、紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎、熊野に参拝し、その後、江戸表へ下った。
この後藤庄三郎に、徳川家康は聞いた。

「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く、和歌山の城下に、10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。

この川に船で出ると、そのお供をいたしました。

網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後、山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、

これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他、鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、

定めて幸長様のご機嫌は良いだろうと考えていたのですが、

実際には大いに腹を立てておられ、

列卒の奉行を始め、その他役懸りの者達は、散々な目に遭っていました。

そしてまた一度、山鷹野がありましたが、

この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、

きっと幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、

実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに、

「骨を折り大義である。」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて、家康は笑いだした。

「それはその方たちが合点できないはずだ。

紀伊守はそうしていたか。

まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 豊臣家武断派の一人、浅野幸長

 

 

 

ごきげんよう!