徳川家光公の御治世に、
「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき。」
と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は、
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、
政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、
今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」
との御書付を献じられた。
この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて、
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、
これはその当時の御謀であり、このような事を取り上げていては、
他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。
利勝はこれに、
「井伊掃部頭(直孝)に、御相談されるべきでしょう。」
と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、
直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した。
「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、
御先祖(家康)より下された御証文の写しを、
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?
不審に思い、罷り越しました。」
と申した。
陸奥守答えて、
「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」
直孝は尋ねた、
「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」
そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、
御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し、
「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」
そう言いながら、これを二つ三つに引き裂いた。
政宗は、これを見て興醒めして、
「なるほど、左様である。
これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と、
申すものであるな。」
と笑われ、種々の饗応あって後に、
直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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