井伊直政の次男・井伊直孝は、
慶長10年(1605)、15歳から将軍家に仕え、18歳で書院番頭、
慶長16年(1611)、21歳の時には大番頭と順調に出世する。
が、大番頭といえども、
家康、秀忠の御前においては、はるか末座の存在でしか無かった。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こる。
この時、井伊家の家督を継いでいた直孝の兄・直勝は、
病に臥せっており、大御所家康の命によって、
直孝が、兄の代官として井伊家の軍勢を率いた。
やがて冬の陣の和睦がなると、家康は直孝を召し、
「兄に変わり、井伊家を継ぐべし。」
と命じた。
これを聞いた直孝は、驚き涙を流して訴える。
「たしかに兄である直勝は近年病に犯され、軍国の任に耐えられる体ではありません。
ですが、大御所様が昔、父直政につけていただいた古き者共もなお多く残っておりますから、
家のことは問題なく沙汰出来ています。
又、直孝もこのようにありますので、天下の事がありますれば、
今回のように、再び兄の代官として軍勢を率います。
いかなる仰せでありましょうとも、兄を退けて父の家を継ぐというのは、
私の望むところではありません!」
しかし家康は、彼の辞退を許さなかった。
その後も直孝は、安藤帯刀を通じて、なんとかこの命令を撤回できるよう務めたが、
終にそのお許しはなく、直孝は結局、井伊家の家督を継いだ。
さて、直孝が家督を継いだ直後の、御前への出仕の時のことである。
その頃、家臣の中で最も上座にあったのは、家康の謀臣・本多正信であった。
が、この時、直孝、やおら進みでて、なんと正信の上座に座った。
しかもその姿、些かも臆する気配なく堂々として、実に立派であったという。
やがて諸事が終わり御前を下がると、直孝は、正信に向かって頭を下げ、
「今日の私の振る舞い、さぞ無礼なことだと思われたでしょう。
さりながら私が、故侍従(井伊直政)の家を継ぐよう申し付けられた上は、
今後も此の様に振る舞います。
どうかこの事、御免あれ。」
これに正信、嬉しそうな顔をして、
「何をおっしゃるのですか!
今日の振る舞い、この正信こそ喜んだのですよ!
将軍家があなたを、かくあらん人と知って抜擢された事、
実に有難いものだと私は思っています。」
と、答えた。
これを見た人々、互いに打ち寄っては、
「昨日までは、大番頭として、はるか末座に伺候していた人が、
今日は一番に上座に立ったが、
その立ち振る舞いは実に立派であった。
これは将軍家の良き人事である。」
と、これを喜んだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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