明智光秀の家臣であった天野源右衛門と言えば、
当時、名の知れた豪傑であった。
彼は本能寺の時、織田信長に槍を付けたとされたが、これにより豊臣秀吉から、
主君の敵であると大いに憎まれ、さしもの武名燦然たる勇者も、
逼塞の生活を余儀なくされていた。
そんな中、関白・豊臣秀次が、未だ三好治兵衛と称していた頃であったが、
秀吉に許可をもらって召抱えることとなった。
ある時の事、秀次が殿舎の建設をするとして、
天野にも家人を召しだして、この普請に当たらせよと命じた。
普請役というものである。
天野は、「承り候。」と答えたものの、内心、こう思った。
「私は国に大事のあった時、一方の先陣を駆けて敵を挫く事こそを仕事として、
この人に仕えたのである。
普請などということをさせられるとは聞いていない!
そのような作業は足軽などがするものではないか。」
そして屋敷に帰ると、すぐさま自分の士卒2,300人に弓鉄砲を持たせ、
自分は槍を掴み、
その姿で普請場へと押しかけた!
この完全武装の集団を見た秀次は大いに驚き、
「天野は狂乱したのか!?どうしてこんな事をするのか、理由を聞いてこい!」
と、叫ぶと、側衆が出て、そのとおりに天野に聞いた。
これに天野曰く。
「それはですな、私はここに家人を召し連れて来るようにとの御下知を受けました。
これはきっと、謀反人などがあって、それを討てという事があるのだと判断しました。
そのためこのように武装して馳せ参じたのです。」
秀次家臣の田中兵部はそれを聞くと大いに驚き、
「そ、その様なことではない!
急ぎの普請があるから家人を召し遣わし、
この作業の功を励ませとの仰せであったのだ!」
天野、この言葉にカラカラと大笑した。
「私は、普請をするような家人は持ってはおらぬ!
私は家人たちにいつも、槍を付き太刀を打つ業こそ、
心掛けよと言っておるのだ!」
秀次は、この天野の言葉に激怒した。
「このような傍若無人の行為を成すような者、頸を刎ね獄門に懸け。
諸人に対する見せしめとせよ!」
そういって天野に対し討手を差し向けようとしているのを見て取った天野は、
「もはやこの様な暗君に仕えて、いかにするというのか。」
と、直ぐ様その場より出奔した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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