左馬助の馬☆ | げむおた街道をゆく

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明智左馬助(秀満)は、2千騎で安土城を守っていたが、

羽柴筑前守が3万余騎で西国より馳せ上り、

6月13日に山崎表で一戦あると聞き、

「敵は亡君復讐の義兵で勇気は激しく、味方は不義天罰を逃れまい。
私はこの城を誰のために、いつまで守るべきなのか。

ただ山崎の勢に馳せ加わり、光秀と死を共にせん。」

と志を決し、出陣したところに、

光秀は山崎の一戦に打ち負け、青龍寺にも堪りかねて坂本へ引き返そうとし、

途中の小栗栖で、土民のために討たれたとの噂を聞き、

「それでは出軍しても仕方ない。

坂本城へ引き返して光秀の妻子らを刺し殺し、

自分もこれでは甲斐もないゆえ直ちに自殺せん。」

と思い定め、粟津を北へ大津目指して馳せ帰った。

羽柴の大軍は、昨日の勝ちに乗じて、堀久太郎秀政を先手とし雲霞の如く群がり、

えいえい声を出して大津松本の間、
おものの浜打手の浜辺まで押し来たり、光秀の居城・坂本を一呑みにせん勢いであった。

 

羽柴勢は、左馬助と、札の辻辺りで出合い頭に出で逢いたちまち戦いを交えた。

左馬助は真っ先に駆けて右往左往に馳せ廻り、力を尽くし花々しく戦った。

しかし左馬助の2千騎は大軍に引き包まれてあるいは討たれ、あるいは落ち去り、

今は左馬助1人となって、ついに一方を切り抜けて、琵琶湖へ馬をさっと乗り入れた。

 

左馬助のその日の出で立ちは、
“二の谷”といわれる名高き兜、白練に狩野永徳が描いた雲龍の陣羽織で大鹿毛の駿馬に跨り、

さざ波や志賀の浦風に立つ波を蹴立て蹴立て、

唐崎の1本の松を目指して静々と馬を泳がせた。

 

羽柴の大軍は、口々に、

「今に見よ、左馬助は、水に沈んで死ぬであろう。」

とこなたの湖岸に立ち並び、ただうかうかと眺めていた。

 

左馬助はやがて唐崎まで事もなく乗り付けたため、大津浦で眺めていた大軍は、

「ややっ、左馬助は海上を渡ったぞ!」

と湖岸を西へ喚き叫んで馳せ向かった。

 

左馬助は唐崎に乗り上がり、1本の松陰で馬から降りて松の根に腰を打ち掛け、

追い来る大軍を遠見して休んでいたが、追兵がすでに4,5丁に迫る時、

ひらりと馬に打ち乗ってただ一乗りに坂本へ馳せ入った。

 

町中には十王堂があった。

左馬助はその堂の前で馬から降り、手綱を切って堂の格子に馬を繋ぎ付けた。

そして矢立の筆を取り出すと帖紙を引き裂いて、

「この馬は、只今湖水を渡った馬です。

分捕った御方は、この馬に憐れみを御かけになって下さい。」

と書き付け、手取髪に結い付けると自身は坂本城へと入った。
 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 湖水渡り、明智秀満

 

 

 

ごきげんよう!