明智光秀が、家老の明智弥平次(秀満)を呼び、
丹波の城の天守にて、このように言った。
「私は信長に恨み多し。
その上に又、このままでは終には我が身難儀に及ぶだろうと予想している。
この上は信長を失い、一度は天下を守るべしと思うのだ。
どうだろうか?」
弥平次承って、
「御恨みの事は、さもあるでしょう。
しかれども信長公は御心安く思し召されているからこそ、
跡々の後遺恨も無く、その上に又、都に近い丹波国に添えて、坂本まで拝領された事は、
過分のお取り立てであり、冥加に叶い給う所であるのに、少しの恨みを思い捨てられず、
御逆心なされるというのは、天命が尽き果ててしまうこと疑い有りません。
思召し留まり給うべきです。」
そのように言葉を尽くして諫止すると、
光秀もややあって、
「よくよく分別してまた申すことにする。その方も分別有るように。」
と言い、その日、この話は止んだ。
その後、溝尾藤兵衛、斎藤内蔵助、明智次郎左衛門、藤田伝吉の、
四人の家老を召し集めて、先の思い立ったことを言うと、彼らが諫止することも、
弥平次が申すことと変わらず、その時、
光秀も、とくと分別定まって、
「ならば皆々、この事を深く秘すべし。」
と約した。
その後の六月朔日、光秀はまた弥兵衛を召して、
「近頃、私が言ったこと、年寄共とも密かに談合したが、
その方の申した所と少しも違わなかった。
したがって、思いとどまることとした。
その事、その方も心得ておくように。」
と言ったが、
弥平次は、これを聞くと、
「いよいよ御勿体なき御分別かな。
それがし一人の口はいかようにも止められますが、四人の口を止めさせるのは困難です。
天知る地知る、我知る人知る、殿が信長公を恨まれるように、
かの四人の内に、もしも御前を恨み申すことが出来れば、
その時に天罰を逃れることは出来ません。
この上は是非も有りません、思し召されたことを実行するのです。
時を移されれば、一大事となるでしょう。」
そう荒々しく申すと、その時、光秀は、困難に直面した気色にて、
前後を忘却した様子であったが、
弥平次が引き立て進めた所、彼に気力を付けられて、
「さて、いかなる手立てが、然るべしであろうか。」
とあった。
「ならば、家老共を召されて、
『只今京都より飛脚到来、西国へ筑前守(秀吉)を遣わし置かれている事について、
仔細が有るので急ぎ罷り越すようにと仰せ下された、
詳細は加茂川にて申し渡すので、
今夜、夜半に加茂川に腰兵糧ばかりにて集まるように。』
と、仰せになられるべしです。」
こうして、明日二日の未明に、加茂川より本能寺と二条の両方に軍勢を押し分けて、
終に、信長公、城介殿(信忠)に御腹召させられたという事は、世に知られている所である。
その後、光秀は、京の定めをあらまし仕置して、
安土に赴き、安土の定めをして、また京に上るという時に、
弥平次を呼んで、
「ここは信長の居城であるので、その方はここにて、
金銀等よろずの管理を、油断なく仕ってほしい。」
と言った。
弥平次は、これを聞くと、
「私のようなものを!」
と、自分の鼻を指差して、
「ここに金奉行として置かれるなどというのは、いよいよ天命がお尽きになったようです!」
と腹立ちに言い返したが、光秀はこれを承引せず、弥平次を安土に留めさせた。
案の如く、明智は山崎にて討たれた。
弥平次は安土にて討ちもらされ、坂本に城に入って、腹切って死んだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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