明智光秀が、丹波入国の時、亀山の町中を通っていると、
14,5ばかりの童子が通りに足を出していた。
光秀が、童子の父で、鍛治屋をしているものを呼ぶと、
鍛冶屋、
「せがれですが元来足萎えなもので、御通りの際にたいそう無礼なことをいたしました。
不具のため、どうかお許しください。」
光秀、
「いやいや無礼をとがめたのではない。
かの者の眼差しを見るに常の者ではないと感じたためだ。
お前の子供を我に預けてくれれば養生を加え、
もし病が癒えれば召しつかってやるぞ。」
と言ったところ、父母は大いによろこび、すぐに童子を差し出した。
光秀が有馬の湯へ五七(三十五)日入れたところ、たちまち筋骨がのびて全快した。
光秀が小姓としてつかったところ、学ばずして知り、習わずして悟り、
三宅弥平次としてまたとない出世をした。
二十一の時、光秀は苗字と名前を与え明智左馬助光遠と名乗らせ、
斎藤(利光)、柴田(勝定?)と同様に家老とした。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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