御宿勘兵衛政友と言う侍がいた。
彼は武勇の者であり、今川義元、武田信玄、勝頼、北条氏直と仕え、
北条滅亡の後は結城秀康に一万石で仕えたが、
秀康の死後、何が気に入らなかったのか牢人となり、
大坂の陣が始まると、豊臣秀頼の招きに応じ早速大坂城に入城した。
御宿勘兵衛、この時、秀頼より、戦に勝ち天下を取り戻せば越前一国を与える、
との書付をもらい、
この時より『越前守』を名乗ったと言う。
彼は冬の陣において、蜂須賀への夜討などで大いに活躍した。
そして夏の陣、四月二十七日のこと。
御宿は大坂を密かに出て、京の板倉勝重の下を尋ねた。
板倉、自分の所へと来た仔細を聞けば、御宿、
「私は子にほだされてここへ参ったのだ。
私の子が江戸で放埒な事を仕出かし、
禁獄されたと聞き及んだ。
どうか、わが子を御赦免いただきたい。
その為に私は、
侍として相応しくないことをこれより述べる。
明日二十八日、家康公、秀忠公の両御所様が、
京より大阪に向けて御動座なされると聞く。
これにより防備が手薄になったところを、大阪方は古田織部と申し合わせ、
京、伏見を焼き払う計画を立てている。
秀頼公より過分の御恩に預かっていながら、
このような密告をするのは武士の本意でないこと、
よくわかっている。
しかしこれは、我が子を救いたい一心でのことなのだ。」
板倉はすぐにこれを家康に報告。
家康はその内容を信用し、
「御宿なら小田原にいた時から存じておる。
このたびの忠節、息子だけではなく御宿本人も許し、
このまま我が陣に留まらせ奉公させよ。」
と、板倉に言った。
御宿は板倉よりこれを聞くが、
「最前より申し上げているように、わたしは秀頼公より深い恩顧を頂いている。
この上はせめて、秀頼公のためこの身を捨てるしかないのだ。
出来うるなら、私の代わりに息子を召し出してやって欲しい。」
そう言うと又、大坂へと帰っていった。
御宿からの情報により、二十八日の動座は中止となった。
五月七日、御宿勘兵衛は天王寺・岡山合戦にて討死。
奇しくも彼がかつて仕えた越前松平家の手の者に討たれた、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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