戸田勝成☆ | げむおた街道をゆく

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戸田武蔵守(勝成/重政)は、文武に優れ、茶や歌をよくする名将であった。
 

丹羽親子(長秀・長重)に仕え武勇のみならず内政・外交に素晴らしい手腕を見せた。
謀略にも長け長秀のために様々な武略・政略をたてことごとく当たった。
 

しかし、長重は武蔵守の忠言・諫言を聞かず家を治められなかったため、

太閤(秀吉)により所領を削られ、

太閤はかねてより目をつけていた武蔵守を直臣に加えた。
 

武蔵守は出家することも考えたが、太閤のもとにあって丹羽氏を滅ぼそうとする、
太閤を留めるべくその招きに応じた。
 

一説に、太閤に仕えるにあたって、

「丹羽家を滅ぼさないこと。」

を条件にしたと言う。
 

長重への忠誠心から、太閤の直臣になってからは特に目立つ活躍もせず、

他人と功を争うこともなく太閤に馴れ親しむこともなく超然としていたため、

一万石のままに終わったが、後に(黒田)如水は、

「武蔵守なれば、本来は十万石以上の大名に取り立てられても、

誰も不満に思わないだろう。

少なくとも、村上頼勝・溝口秀勝・長束正家の上に来ることはあっても下ではあるまい。」

と語った。
 

だが、その優れた人柄を慕うものは多く、大身の大名から町人まで、

分け隔てなく付き合い、誰からも好かれた。
 

武蔵守はもはや主君や自分のためにその謀才を使うことは無かったが、

困っている者があれば相談にのり、その者のために謀(はかりごと)を行った。
武蔵守のおかげで、太閤の怒りや罰から免れたものも少なくない。
 

関が原の戦いにおいては、その義侠心ゆえに家康公に怒りを抱き豊臣家のために、
西軍に馳せ参じたが、かつての主君・長重には自重するように送ったという。
 

しかし長重は軽率にも西軍につき、その所領を失うことになった。
小早川秀秋が必ず禍根になると考えた武蔵守は、

戦が始まる前に秀秋を殺さんとしたが果たせなかった。
 

その後の武蔵守の武勇は語るまでもないが、

その死に東軍の大名・小名多くの者が涙を流したことこそ、武蔵守最大の誉れなり。 

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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ごきげんよう!