糟屋武則☆ | げむおた街道をゆく

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天正6年(1578)、別所長治が播州三木城で蜂起した際、

別所家重臣の加古川城主・糟屋玄蕃朝正も行動を共にした。
 

朝正は、信長に組した小寺政職の妹の子であり、

政職の家老である黒田官兵衛は、必死に朝正を説得した。

「わが殿の縁戚である貴殿を悪いようにはせぬ、降伏なされ。

わしから筑前殿(秀吉)に、うまく取り成そう。」
 

「何と言われようと、今さら別所殿を裏切ることなど出来ぬ。」
 

「ならば、弟御の正之助殿だけでも逃がしなされ!

正之助殿は、まだ別所の家臣ではない。

逃げても後ろ指は差されん。」

官兵衛の、この言葉に納得した朝正は、正之助を呼びつけた。

「おまえは、わしと同じ母の腹から生まれた弟ではあるが、

わが父亡き後、母上が志村助右衛門殿に嫁いで生まれた。
つまり、『糟屋』の血に縛られる必要もないし、別所の恩を受けた身でもない。

よって、これより実父の名を継ぎ、どこへなりと行くが良い。

わしは父上と助右衛門殿に成り代わり、

おまえに弓馬の道を厳しく仕込んだつもりじゃ。

おまえなら、どこへ行っても生きて行けよう。」

正之助改め助右衛門は官兵衛のもとへ行き、秀吉の小姓となった。

しかし、彼は異父兄の情を忘れることが出来ず、
その恩に報いようと、『志村』ではなく『糟屋』姓を称し、糟屋助右衛門数正と名乗った。
 

のちに賤ヶ岳で、佐久間盛政配下の猛将・宿屋七左衛門を討ち取って、

七本槍に数えられた糟屋武則が、これである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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