関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。
慶長10年(1605年)の春、徳川家康は上洛、
大納言・徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が、伏見城の舟入の楼に上って、
秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、
目を驚かすばかりであった。
4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって、
正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し、
天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。
このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、
豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大坂に下向すること無く、
ただ使番などを以って、その旨を伝えるだけであった。
大坂には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、
諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の猿楽に至るまで、
おおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年(1607年)、朝鮮国の信使が来朝した時も、
直ぐに関東に下向して、大坂には登城することなかった。
豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、
何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、
独り豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、
これによって表面化するに至っていなかったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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