関ヶ原の時分、大坂城内では、片桐市正(且元)・主膳(貞隆)を、
討ち果たそうとする企みがあったが、
両人はそれを覚悟し用心していたために、
その身、恙無かった。
関ヶ原合戦の結果が知らされると、大坂より飛脚を以て、
大御所様(徳川家康)に市正・主膳は言上した。
「関ヶ原、御利運という事で、早速大阪へ、御馬を入れて下さい。
我ら兄弟が太閤様の御遺言を守って、
大阪に罷り在った以上、
御親様(淀殿)は違乱について関係ありません。」
その旨を申し上げると、大御所様は前々より相違なく、心中もご満足され、
関ヶ原より直に大坂へ向かわれた。
尼崎の又右衛門家は、古よりの御宿であったので、
先ずそこに御着座され、市正・主膳も、
お迎えに罷り出た。
権現様(家康)の御意に、
「この家は町中であり、如何かと思う。
主膳正は太閤様の仰せ渡しにより、内々の取次をもしている者であるので、
兄弟とは申しながら、主膳にはよしみがある。
狭くても苦からず、主膳の所を宿としよう。」
との事で、そのままそのようになった。
この時、杉浦内蔵允なども御供であり、彼のことはよく覚えていたので物語をした。
この事は証拠として正しくあったことなので、書き付けておく。
翌日、秀頼公へご対面遊ばされ、直ぐに西の丸に大御所様が御座なされた。
その時、片桐兄弟は申し上げた。
「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、
御朱印を出される事然るべしと考えます。」
との旨を申し上げると、「尤もである。」との御意で、
即ち秀頼公の細工人である右京と申す者に申し付け、
主膳の所で御朱印を掘らせた。
大御所様が、江戸に還御の時分に仰せ付けられ、
大坂城中門々の番について、大御所様のお指図を以て、
片桐兄弟の者達により所々を相堅めた。
これは大坂一乱の砌まで、市正・主膳が大阪に在った内は、
その通りに相違なく勤められた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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