さて、因果というものは、有るものだろうか。
太閤・秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、
今太閤の地位にまで至ったというのに、
信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)の御腹を切らせ給い、
尾張内府(信雄)の御知行を召し、北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。
さて又、太閤の御子・秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、
大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見にて諸大名に仰せ打ち奉らんと、
二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、
また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと、
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)
相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるし、助けたいとは思われたが、
この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、
よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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