慶長20年(1615)、豊臣秀頼が誓紙を違え和睦を破り、再び諸牢人を募集し、
これにより京大阪に大きな騒動が起こっていることが関東に聞こえると、
大御所・徳川家康は、4月4日に駿府を立ち、同18日、京に到着した。
大樹・徳川秀忠は、4月10日に江戸城を出て、同21日に伏見城に入った。
これにより、貴賎南往北来の混乱をしていた洛中も落ち着きを取り戻した。
前の冬の陣に従軍した軍勢はようやく本国に帰り、
未だ弓も弓袋に入れていない有り様であったが、
再び両御所により上洛するよう命が下ると、日本の諸大名は、
今度こそ軍功をなして天下の誉れを得ようと、夜を日に継いで駆け上がった。
よって五畿内の内は、野にも山にも諸軍勢が満ち満ちて、
未だ秋ならぬ都の景色も、色めいて紅葉を吹き散らしたようであった。
両御所は京に到着すると常高院(淀殿妹・初)を召して言った。
「我々は秀頼公の御為を浅からず思い、この和睦を整え誓紙を取り交わしたというのに、
再びこのような事を思い立つとはどういう事だろうか。
しかし、この上でも大阪の城を明け渡しさえすれば、
代わりにどこの国でも望みに任せて参らせるであろう。
このことを、伝えて頂きたい。」
常高院は大阪城に入り、秀頼達にこのことを伝えると、
秀頼母北方(淀殿)、大野修理亮(長治)らは、その提案に同意し、
「どう考えても叶わないのですから、虚しく朽ち果てるよりも、
身を全うして時節を待たれるべきです。」
そう主張したが、秀頼はこれに、以ての外に怒りだした。
「時節を待てと!
今の世の人心を知りながら、そのように計らうというのは、臆病心のする業である!
そもそも弓矢の事に女が口を出すなど、ろくな事に成らない!
常高院よ、二度と私の前に出てくるな。
どうしてもというなら、この扱いの事は、私の髑髏に逢って伝えよ!」
そう言い放つと障子を乱暴に開け、奥の御所へと入っていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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