大坂冬の陣の講和のあと、豊臣秀頼は、諸牢人に対し金銀百枚を配った。
この事を知った大野修理は、3月3日、秀頼の御前に出て、このように諫言した。
「秀頼様のこの頃のなさり様は、どうしても心得がたいものばかりです。
去年の和睦のさい、大御所より仰せられたのは、牢人衆の頭たちだけはお抱えになり、
その下の者達は尽く召し放ち、兵糧の続くようにせよ、との事でした。
これに関しては、今まで度々申し上げてきたのに、ご許容なさいませんでした。
あまつさえこの頃は、若き者共に金銀百枚づつ与え、
それで人を抱えるようにと言われているそうではありませんか。
これは一体何を意図されているのでしょうか!?
ご存知のように、籠城している間から諸大名の心を色々と引いてみましたが、
同心するものは居りませんでした。
ことさら今日に至っては堀を埋め石垣を崩した以上、
天下の兵を引き受け合戦を行うなど、考えもできない状況です。
只今はとにかく御身を全うして、時節をお待ちに成るべきです!」
秀頼は、これを聞いて、
「お前の指図により、私が後代に面目を失った事が二つある。
籠城の時、私は、諸陣を廻って軍勢の労を慰めたいと度々言ったのに、
古老の者共と申し合わせて、これを留めた。
また今回の和睦についても、私は同意していなかったのに、
古参新参の者たちが揃って私を諌めた。
これもまた、お前の心より出たものである。
諸大名の心を引くなどというのは、それ以前の話である。
こうなった後、誰が私に与しようと考えるものがあるだろうか。
現在の状況に至らしめた事を、勧めたのも汝であり、留めたのも汝である。
そして今、その責めは私一人に帰して、逃れる所は無い。
もはや屍を軍門に晒し、名を後代に上げるより他はない。」
そのように答えたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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