豊臣秀次は、武具の好みに、拘りのある男であった。
金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、
「あれは大変見事である。あれにすべき。」
と、御幣をまといとした。
甲冑は、
「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」
と、これを所望した。
日野根、これを拒みがたく献上したが、この時、
「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」
そう、念を押した。
その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。
さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて、秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。
その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、
人々に言いそやされた。
秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、
この時より、鷹狩り狩猟の時は勿論の事、
詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。
が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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