秀長の死☆ | げむおた街道をゆく

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天正19年。

この年、太閤秀吉は、伏見の城を築き隠居所として、大阪の城と掛け持ちにした。

諸大名以下は伏見に屋敷を構え、代わる代わる出仕した。

4月、太閤の側室が男子(鶴松)を産んだ。

 

太閤は50を越えるまで子がなかった所、若君の誕生に、
喜び限りなかった。

国持大名、旗本の面々、ことごとくこれを賀した。

このような目出度い折に、太閤の舎弟である大和大納言秀長卿は、

久しく病に臥せっていたが、
遂に空しくなられた。

太閤の連枝、男子はこの秀長卿一人であった。

当時は戦国の頃であり、人倫の法も乱れ、兄弟で争うような者達も多かったが、
秀長は秀吉によく従い、いつも先陣を務め、或いは一方の大将として戦功度々多く、

武勇優れ、秀吉をよく助けたため、秀吉よりの友愛も深く、官位も大納言に昇り、

禄は大和、泉、紀伊三ヵ国を領して、国家の柱石となられ、

天下の人々は彼を仰ぎ尊んだが、たちまち黄泉の人となってしまった。

太閤の嘆き悲しみは浅くなく、これこそ大いなる憂いであると考えられたが、

その秋の頃、
この年4月に生まれた若君もにわかにかくれられた。

 

太閤は、悲しみのあまりであろうか、

清水寺に3日逗留されたが、近臣を集めて仰せに成った。

「日本国は既に、ことごとく手の中に入った。

この上は秀次に日本を渡し、大明国に入って四百余州の王となろう!

去年朝鮮より使者が来た時、書簡を朝鮮に贈り、

大明を討つときは朝鮮は必ずその先手をせよと告げたにも関わらず、

未だその返書はこない。

ならば、先ずは朝鮮を征伐すべし。
朝鮮が我に従うのなら、先手として大明に入るべし。

もし従わないのなら、先の朝鮮を滅ぼして、その後、大明に入るべし!

来春は必ず、大軍を朝鮮に出撃させる!」

そう、諸将に触れられたのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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ごきげんよう!