土岐頼芸追放後☆ | げむおた街道をゆく

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かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、

太守・土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、

八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として置いた。

 

頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。

七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので容易く討てないと考え、毒害にて殺した。

 

また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。

また日蓮宗常在寺は、前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、

日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を寺領として寄付し、

子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。

 

すなわち常在寺五世日饒上人、六世日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。

 

他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。

次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。

その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、

天文十五年、織田備前守(信秀)は、
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。

 

秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、

城下の四方、民家を悉く放火した。

 

瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、

稲葉山城下にて大いに戦った。
 

織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。

一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。

城には尾州勢の織田播磨守が入れ置かれていた。

そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、

その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、

道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 美濃の蝮、斎藤道三

 

 

 

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