土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、
朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、
国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。
このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に成っていた。
秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、
天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。
太守頼芸も、防ぎ戦うことにも及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。
悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成ったのである。
頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、
父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。
揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、
村山と一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。
太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを知って後悔され、
すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、
残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ落ちるための殿をした。
かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。
信秀は彼らを熱田の一向寺に入れ置き、
それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。
この事を山城守聞いて、叶わずと思ったのか、
和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。
その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、
暫く国穏やかであった。
されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。
後に宮内少輔頼栄と改めた。
その後、信秀の計らいで、頼芸父子を大桑城を修復して移らせ給った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!