かくして、美濃土岐家において、
斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、
左京大夫を改め山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。
普段は葦出城に詰めて、土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、
太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、
太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も、
「それほど思うのならば召し連れて参れ。」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。
この人は既に懐妊しており、出産の後、
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、
山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と名乗らせた。
太守には七人の子があった。
長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。
彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、
彼を自分のニ男、当時三歳であった林七郎右衛門通兼の後見として、
自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。
この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、
父頼芸の老後を介抱して、後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。
後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。
ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、
国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、
秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を送ったため、太郎法師は大いに怒り、
「主従の礼を失うこと奇怪なり。」
と、ある時太郎法師丸をはじめ氏族の面々、旗下の小童数名が、
葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、
これに太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、
的矢をつがい、城内殿中まで追い込んだ。
太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、
或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の末子市之丞という若輩者と語らい、
殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。
こうして山城守はつくづくと考えた。
「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ。」
そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を頼芸に讒言した。
ある時、登城して太守に申し上げたのは、
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。
御曹司はまだ御幼少ですから何の御心も有りませんが、
伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。
しかしながら流石に父子兄弟の事であるので、そのままにして時が過ぎた。
それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた。
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、
戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。
なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が諸鐙を打って追いかけましたが、
山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、
これも偏に御寵愛にほこり自分が凡下であることを忘れ、
御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。
彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと致します。」
そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され、
太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく思っていたため何も答えず、
「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も失うべき。」
と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、
五郎殿は甚だ面目無く三輪へと帰った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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