斎藤道三は、永正元甲子年(1504)5月出生。
童名“峯丸”という。
生まれ付き美々しく諸人に優れ、幼少の頃より智慮賢かった。
父の基宗は、峯丸が生まれ付き只ならぬのを察して、
「凡下に、なし置くのも残念だ。」
と、峯丸11歳の春に出家させ、京都妙覚寺の日善上人の弟子となし“法蓮房”と号す。
元来利発の者なので日善上人に随身して、
学は顕密の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、
内外を良く悟り、すこぶる名僧の端ともなった。
(中略)
さてまた、法蓮房は常々南陽房を引き回すほどの者なので、
もっぱら無双の名僧であったが、ある時いかなる心が付いたのか三衣を脱いで還俗し、
西の岡に帰って住居し、奈良屋又兵衛という者の娘を娶って妻となし、
かの家名を改めて“山崎屋庄五郎”と名乗り灯油を商いした。
後に父の氏を用いて“松波庄五郎”と号す。
元来この者は心中に大志もあったのか、
出家の間にも和漢の軍書に眼を晒して合戦の指揮、進退駆け引きの奥義を学び、
また良く音曲に達し、あるいは弓砲の術に妙を得ていた。
大永(1521~)の頃より、毎年美濃国に来て油を売っていたのだが、
かの厚見郡今泉の常在寺の住職である日運上人は幼少の頃の朋友で、
その知辺があることで数日常在寺に来たり、
様々な物語りなどして当国の容体を窺った。
元来、聡明英智にして武勇剛計を志し、身は賤しき商民なれども、
心は剛にして思い内にありといえど、時を得ずして本国を離れ斯くの如く身を落として、
濃州に来たり、立身出世を心がけて川手・稲葉・鷺山などの城下に至り、
日々灯油を売り歩いて行ったのだが、弁舌をもって諸人を欺いていた。
ある時、人に向かって申し、
「私めは油を測るのに上戸(漏斗)を使わずに、
1文の銭の穴から通すことができる!
もし穴から外へ少しでもかかったならば、油を無料で進ぜよう!」
と言えば、皆人はこれは稀有の油売りだと城下の者どもは他の人の油はあえて求めず、
ただ庄五郎の油のみを買った故に、しばらくの内に数多の利分を得て大いに金銀を蓄え、
なおも油を商いした。
そのため稲葉山の城主・長井藤左衛門長張(長弘)の家臣・矢野五左衛門という者は、
この由を聞いて庄五郎を呼び自ら油を求めた。
すると庄五郎は畏まって銭1文を取り出し、
件の油を四角の柄杓で汲み出し流れること糸筋の如く、
細く滴って銭の穴を通せば五左衛門大いに感じ、申して曰く、
「まことにこれ不思議の手の内なり。よくもまあ手練したものだ。
しかしながら惜しいことだ。
これほどに業を良く得ていても賤しき芸である故に、
熟したところでわずかの町人の業である。
哀れ、かほどの手練を私が嗜む武術において得る程であれば、
あっぱれ後代にその名を知られる武士ともなるだろうに、残念なことよ。」
と申した。
庄五郎はこれを聞いて、実に矢野の一言はその理に至極せりと我が家に帰り、
そのまま油道具を売り払い右の商売を止めて心中で思うには、
「私はいささか軍書に心を寄せているといえど未だ熟していない。
いずれの芸を嗜むにしても、その極意の至るところは、
1文の銭の穴から油が通る時に外にかからない如く、皆手の内の極まるところにある。
弓矢鉄砲で良く的当するのもこの理に等しい。
それならば長槍を手練しよう。」
と欲した。
庄五郎は自ら工夫して我が家の後ろに行き、
藪のある所で銭1文を竹の先に釣り置き、
3間半の長槍を拵えて穂先は細い釘で作り、
一心不乱に毎日毎日銭の穴目掛けて下から突いていたのだが、
中々初めの頃は掌定まらず突き通すことができなかった。
しかし『極志も業も一心にあり』と兵書に言われる如く、
一心二業一眼二早速一心眼に入り早速心に入って業は定まり、
後には終いにこれを突き通す程になったので、百度千度突くとも1つも外すこと無く、
その術は、ほとんど一必定に止まったのである。
すなわち庄五郎はこれを旨として名師とさえ聞けばたちまち随身してこれを励み、
切磋琢磨の功を積んで武術兵術一つとして欠けることなく、
実に希代の名士となったのである。
世に3間半の長槍が流布して用いたがこれより始まったのである。
いかにもその徳はあまねく多かった。
また庄五郎は砲術に妙を得ていた。
細やかにして、提針をも外さなかった。
天正(1573~)の頃、
明智光秀が砲術に妙を得ているといってその名を知られたのは、
初めこの道三を師としてこれを手練した故である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!