中村一忠の家臣・竹田五兵衛は、一忠の父・中村式部小輔一氏の姪の子であり、
当時、無双の大力として有名であった。
彼は2間(約3,6メートル)余りもある、大鳥毛の指物を用いていた。
慶長五年(1600)、家康の会津征伐に中村一忠は従軍することとなる。
当時、重い病の床にあった中村一氏も、出陣の行列を観兵するため、
駿河城の玄関まで出てきた。
この時、竹田五兵衛は、誇らしげに件の大指物を指していた。
しかし、これを見た一氏は、苦言を発した。
「五兵衛よ、そんな大指物を指していては、
戦場での機敏な駆け引きがおぼつかないではないか。」
これを聞いた五兵衛は返答もせず、突然その指物をつけたまま、側の塀に飛び上がった。
そこからまた軽々と飛び降り、側にいた弟の三十郎に向かって語った。
「殿は武士に対して、軽率なことを言われるものだ。
私は今回の陣できっと、忠死することになるであろうよ。」
自分はこの指物をつけたまま大いに働く自信がある、
だがもし今回の軍陣で働きが悪ければ、
大指物を着けることは間違っているという、
一氏の発言を肯定してしまうことに成る。
武士としてそのような恥辱を受けることは耐えられない。
そのため自分は今回の戦で、
討死を覚悟した働きをする。
五兵衛は、そう言っているのだ。
後でこの事を聞いた一氏は、自分の発言に、大変に後悔したと言う。
竹田五兵衛は、一忠と共に家康に付き従い、言葉の通り晴れがましく戦い、
関ヶ原において見事な討死を遂げたという。
享年、23歳であった。
一方、中村一氏は出陣式の後病状を悪化させ、関ヶ原の戦いの直前、
慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死んだ。
武士への言葉というものの重さ、という話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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