慶長7年(1602年)、信濃川中島領主・森忠政は、全領の一斉検地を行うことを決定。
元々厳しい税率で苦しい生活を強いられてきた川中島の領民は、
これに反対したが結局の所、
検地は行われる事となった。
『右近検地』と言われる徹底的な検地の結果、領内の石高はこうなった。
13万6500石→約19万石
領民、「これはひどい。」
森家入領からたった2年でこんなに石高が増える訳が無い。
当然の如く領民達は不満を持ち、
検地のやり直しの嘆願書などが出されたが、忠政はこの訴えを完全に無視した。
こうした不満が高まりついに忠政の領する北信濃4郡で全領一揆が起こってしまう。
しかし・・・。
忠政、
「嘆願書を出した連中が一揆を煽動するような気がして準備してました。
伴!甲賀者から近隣の村の情報を各城に知らせ!
一揆を捕縛させろ。」
伴、
「畏まりました。」
もはや分かっていたと言わんばかりに、森家の兵が一揆勢を逮捕し始め、
全領での一揆にも関わらず、ものの数日で完全に鎮圧されてしまった。
税率も厳しければ逮捕の基準も厳しく、
連行された人間は約600人にも及んだ。
忠政、
「税金が払えないなら、死ねばいいじゃない。全員磔に掛けろ。」
もはや申し開きは一切不要。
一揆=死罪。
参加者は全員平等に磔に掛けられる事に・・・。
その大処刑の当日には現場に忠政の姿もあった。
忠政、
「おい、そこのお前。そんな槍じゃいかんだろ。ちょっと貸しなよ。
ほぅら、研げたぞ!
さぁ、ズンと突け!」
自ら懐から砥石を取り出して、
池に入って槍を研磨する忠政。
こうして見るも無残な600人の一斉処刑は行われた。
しかもこの一揆の後もなお税率は据え置き、検地のやり直しも無し。
取り立ても相変わらず厳しく、
払えない人間には容赦なく罰が課された。
唯一、川中島の民にとって幸いだったのは、
翌慶長8年(1603年)に、小早川秀秋の死により開いた美作一国に、
忠政が転封された事ぐらいか。
森家が信濃を去った後、この事件の犠牲者の菩提を弔うべく小さな塚が建てられた。
その塚には赤い小さな文字でびっしりと犠牲者の名前が書かれている。
この不吉な塚はいつしか「千人塚」という名が付き、今も善光寺に残る。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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