河尻秀隆☆ | げむおた街道をゆく

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河尻秀隆の最期5撰。

本能寺の変後の混乱の中で散った秀隆の最後を語る同時代史料は皆無ですが、

後世の書物には細部の異なる形で、いくつものパターンが記録されているのでご紹介。


①当代記

6月10日頃、本多百助、家康の命により甲斐国に派遣される。

彼の国は織田信長により河尻与兵衛が置かれていたが、

信長が他界したことが伝わると人々は河尻に服従せず、百助に従う様子を見せた。

やがて一揆が起こり、河尻の居所に押し寄せた。

百助はこれをなだめ、河尻に事態収拾のために上方へ帰ることを求めた。

河尻はこれに応じず百助を生害し、その後自害して果てた。

家来等は上方へ退いたので、家康が甲斐を横領なされた。


②三河物語

本多百助は河尻与兵衛とは知り合いだったので急いでやって来て、

「一揆が起こったら援軍を差し向ける。」

と言った。

 

河尻も、「ありがたい。」と言った。

しかし実際は百助が一揆を煽動し自分たちを討とうとしていると思っていた。

河尻は百助を馳走すると、蚊帳を吊って寝かせた。

その後、長刀を持って来ると、釣り手を斬って落として突き殺した。

一揆の者はこれを聞くとただちに押し寄せて河尻を殺した。


③落穂集

信長は甲斐半国を河尻与兵衛に下されたとき、

甲斐は領地並であるのでいろいろと面倒を見てやってください、

と家康に申された。

その後、家康は百助を甲斐に派遣したが、

河尻はこれを自分を討つ計略があるものと考え違いを起こしてしまった。

ある夜、河尻は稚小姓を用いて百助を殺した。

百助の家来はこれを知ると怒り、武田の浪人に訴えて一揆を起こした。

河尻は家を襲撃され、従者も全員が殺害された。

討手は武川衆の三井十右衛門という。

報告を受けた家康は大変喜び、岡部・成瀬・芦田を派遣し、甲州経営を始められた。


④岩淵夜話

本能寺の変後、家康は度々、手紙や使者を送り河尻の様子をうかがってあげていた。

ところが河尻は全くこれをありがたいとは思っていなかった。

むしろ、名のある武田の浪人は河尻に仕えようとせず、

家康に奉公しようとする者が多いことから、家康には何か裏があると考えていた。

またそのために国からつれてきた僅かな家臣のみを頼みとしていた。

やがて家康は河尻が甲州に嫌気が差しているとの噂を耳にし、百助を派遣して、

「百助を案内として、私の領内を通れば安全に上方へ帰らせる。」

と伝えた。

河尻はこれを聞くと怪しみ、6月14日に小姓を用いて百助を殺した。

武田の浪人はこれを聞くと、

「家康公に、このようなことをするやつに遠慮はいらない。」

などと言い、一揆を結んで河尻を攻め殺した。

家康は百助の死を知ると、河尻の事を思って色々してやったのに、

相談役として付けた百助を殺すとはなんたる不義理だ、

それにしても惜しい男を、河尻などのために殺されてしまったと涙を流した。

家老らは軍勢を派遣して河尻を打ちましょうと言ったが、

そのようなことは、この家康がすることではない、

しばらくこのままにして様子を見ようと言われた。


⑤武田三代記

信長親子は明智光秀に殺された。

河尻は国を捨てて逃げようとしたが、道路の害を恐れて進退窮まり、

如何ともしがたい状況に陥った。

源君はこれを知って不憫に思われ、上方へおくり届けてあげようとした。

しかし間に合わず甲州の土民が蜂起し河尻を打ち殺してしまった。

浅ましいことである。

首は三井が取り、勝頼の墳墓に供えた。

諸人、これを感ぜずことなしと言う。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 織田家臣団

 

 

 

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