織田秀信は、慶長五年の石田三成の呼び集めに応じて一味し、
岐阜に籠城した。
関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちは、
これを攻め、
先手・田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に、織田勢は敗軍した。
池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、
それぞれに暇を遣わして、自身は高野山へ遁世した。
「この急戦中に、
静かに感状を書き与えるなどとは、
若将ながらさすがは、
右大臣・信長公の御嫡孫かな。」
と、その頃、敵方においても賞美されたということだ。
その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、
「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。
こうして僅かに十人ほどの小姓者ばかりを連れて、
この大事の中を落ちて行くのを、
生け捕ったからといって功にもならない。
かえって非義無道である。
士の情は、このような時にこそあるのだ。」
と言って、制止した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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