関ヶ原が始まった頃のこと。
石田三成は、宇喜多秀家らに、東海道への戦略を相談した。
「福島正則が家康と一緒に関東に下っているから、
あの地域にはさしたる敵はいないはず。
尾張の清洲城を攻略してしまえば、
そこから三河の岡崎、吉田とすぐに侵攻できるな。
さて、問題はこの作戦を、誰に申し付けるかだが…。」
この時、増田長盛が発言した。
「先の尾張内府、織田信雄様が良いだろう!
かつて北畠の家も継がれ、尾張、伊勢で、その下知を聴かないものはいないさ。
どうだろう、織田信雄様に任せてみては?」
三成、秀家はこれに同意。
かつての信雄の家老・佐久間不閑斎を呼び出し、
信雄を説得するように言った。
「我らが勝った暁には信雄様に、尾張、三河の領主となっていただこう。」
が、不閑斎、
「現在、信雄様の手勢は、越前大野のご嫡男・秀雄様の元にあり、
しかも秀雄様は、東軍に属しております。
このため軍を発動したいと思っても、信雄様は人手がなく、
また人数を集めるための資金も無いので、どうにもなりませぬ。」
そこで三成は、
「われらの提案を聞き届けるなら、黄金千枚をお渡しする。」
との証文を書いた。
これを持って不閑斎、信雄の下に赴き三成らからの提案を語ったが、
信雄は聞いたとたん、
はなはだしく機嫌を悪くし、即座に断った。
「俺は信長の子だぞ!
何故に石田や増田なんて連中の下知を聞かねばならんのだ!」
しかしここで、近習達が諌める。
「何と口惜しい事をおっしゃいます、これは大チャンスですぞ!
信雄様が尾張に兵を出せば、国中の牢人、郷民はみな、殿を慕って集まるでしょう。
伊勢からも当然、多くの者達が集結します。
それだけでおそらく、2,3万にもなりましょう。
その多勢に下知すれば、尾張、三河を攻め取るなど簡単なことでは無いですか。
信雄様、尾張、三河の大大名に、復帰できるのですよ!」
「そう言われればそうだ。」
信雄、前言を撤回しあっさりとこれを引き受けた。
そこで不閑斎は大阪にとって戻り、
三成に、信雄の同意の返答を伝えたのだが、ところがこの時、
三成が不閑斎に、
「軍資金である。」
と言って渡したのは、約束の黄金千枚ではなく、銀千枚であった。
不閑斎は大いに訝しみ、
「こんな風に約束を違える様では、尾張、三河を与えると言う言葉も、
信用できないぞ。」
と、京の信雄の下に帰った。
ちょうどその頃、越前から嫡男秀雄の使者として、家老の村瀬左馬が上京してきた。
秀雄は信雄の決断を聞き大いに驚き、父を諌めるために派遣したのだ。
そこに不閑斎も戻ってきて、二人して信雄に諫言をする。
これにより結局、信雄が出馬する事はなかった。
ところで、これに最も馬鹿をみたのは、嫡男・秀雄であった。
父信雄が、出馬をしないにもかかわらず、
グズグズと西軍よりの立場を変えなかったため、
元々東軍派であったはずの秀雄も身動きが取れなくなり、
このあいまいな態度のため、
戦後、越前大野五万石を改易された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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