改易と、その後☆ | げむおた街道をゆく

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信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

小田原の陣の後、

秀吉公は、江戸表より岩築と押し通り、

野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
 

この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、

韮山の一城さえ攻め落とすことが出来ず、

剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、

殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』

と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ賜り、

信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。

 

信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。

翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って、

勢州朝熊山に来て寓居されていたのを、また豫州へと遷されたが、

文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、

付き従うよう言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 能の名手、織田信雄

 

 

 

ごきげんよう!