小田原の陣の後、
秀吉公は、江戸表より岩築と押し通り、
野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、
韮山の一城さえ攻め落とすことが出来ず、
剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、
殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』
と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ賜り、
信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。
信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。
翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って、
勢州朝熊山に来て寓居されていたのを、また豫州へと遷されたが、
文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、
付き従うよう言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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