河田長親☆ | げむおた街道をゆく

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天正九年の夏、河田豊前守(長親)は、越中松倉城に籠もった。
織田信長の軍勢が、五万余の兵で押し寄せたが、

河田の武勇に恐れ、二方より遠巻きした。

この時、城中の神保肥後守という者、

越中先方の侍大将にて、河田の相備えであったのだが、
彼には敵と内通しているのではないかという疑いがあった。

 

しかしその証拠となるようなものはなく、ここにおいて、

河田は自分の家臣の中で頼もしき勇士を一人、下郎の出で立ちにさせ、
夜忍んで敵陣へ遣わした。

 

即ち敵はこれを捕らえて怪しみ問うと、彼はこのように答えた。

「私は城内の神保肥後守の透破である。

どのような内容かは知らないが、佐々(成政)殿への一通の書状を持って出た。

城中の者に取られないようにして、佐々殿へ奉れと申し付けられた。
ところが近くの森の中の道にて、

若侍五、七人に出会い、彼らに刀、脇差、羽織、そしてかの書状を、
入れた打飼袋まで剥ぎ取られ、ようやくここまで逃げ参った。

あの書状がその後、この陣に来ているのであれば問題はないが、

城中の者達に取られたのであれば大事である。このこと調べられるように。」

これに対し、敵方も警戒をし、後途の様子を見るまでとし、

その上「心を許すな」と、彼を搦め置き陣中の穿鑿をしたが、

彼の言ったような者はおらず、如何と思案する内に、城中より矢文が射られた。

抜いてみれば、河田豊前守より佐々に宛てた書状であった。

『当城の神保に対しての密議の計略は既に露見した。

その身柄は獄に籠め、首を刎ねようと欲している。

これは武道不功、軍理未熟によるものであり、弓箭の恥辱、

末代までの汚名となること、
どうして疑いがあるだろうか。
しかしながら神保は十年以来の新たに仕えた者であり、

立場が定まっていたわけではない。
頻りに赦しを乞うており、その身柄をそちらの陣に引き渡そうと決まった。

回答を待つ。』

これについて敵は寄り合い、返事をすべきか、

ただ置いて返事をしないでおくか、決断しなかった。

城内に於いては矢留の幕を打ち、二時ばかり返礼を待ったが来なかった。

河田の考えには、
「返書が来たなら、その文体によって真偽を知ることは簡単であった。

然るに返報が来ない以上、
神保の逆意は明らかである。

何故なら神保が内通して居ないのであれば、さっそく返書し、

その文面にあやをなして、内部の和を破る手段として吉兆であると、

急ぎ返事をするはずである。
そうせずに返答が遅いのは、どうにかしてこの陰謀が顕れないよう、

事を誤魔化すべしと談合しているであろうこと、疑いない。」

こうして、河田は神保を召すとこれを虜にし、

その家老、身近の者合わせて七人、主従妻子ともに十三人、
城外の堀際でこれらを磔にした。

 

神保が首に懸けていた守袋の中に、佐々、柴田(勝家)両判にて、
「今回の儀が終結した後、松倉城に五万石を添えて充てがうべし。」

との一状があった。
 

河田豊前守が勇智深き故に、この陰謀を察し擬慮を定めること、斯くの如し。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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