保科正俊☆ | げむおた街道をゆく

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天正13年(1585)11月、小笠原貞慶は、石川数正に呼応して徳川から豊臣に寝返った。
 

同12月初め、上杉家からの支援をもとに5千の兵を集めた貞慶は、

本拠地・深志(松本)から、真田攻めの後処理で城主不在の地が多い南信濃に乱入した。

その城でも、主君の留守を守る侍たちが、対策を協議していた。
「殿も若様も、本隊を率い真田に備え、小諸に駐留。

残った騎士40、雑兵350の小勢では、
門の一つも守りきれまい。

ここは城を落ちて下伊那へ逃れ、徳川様と伊那衆の助けを、
得た上で反撃するべきだ。」
 

「うむ。蛮勇に走って城を落とされ、命を無駄にするは、小諸の殿にも申し訳なし。」

「かーっ!なんちゅう情けない事を言うとるんじゃ!」

 

「あっ、ご、ご隠居様!」
 

今年75歳になる隠居した先代が、いつの間にか座に加わっていた。

「若い者が血気に逸って死に急いではいかんと来てみれば、

一戦もせずに城を捨てる相談とは…お主ら、それでも武士か!」
 

「お言葉ですがご隠居様、兵にして十数倍の敵が相手では…。」

「深志からこの城へ至るには不動峰南端の鉾持桟道(ほこじさんどう)、

人がすれ違うのがやっとの山道を通る他あるまい。

そこが狙い目よ。
その上、小笠原は短気な性分。

数を頼んで大した謀もあるまい。

まあ、わしに任せておけ。
これでも戦に臨む事60余度、少しは駆け引きも心得ておる。
老後の思い出に九死一生の戦のやり方、お主らに見せてやるわい。」

隠居は蔵から白布数十反を出し、数々の紋を描かせ、偽の旗印を大量に作らせた。
さらに、近隣の農民300余を招集し、

このうち160人に武具鉄砲を与えて鉾持桟道の川向い、
白山の山中に伏兵として置いた。

12月3日、吹雪の中を鉾持桟道に差し掛かった小笠原軍の先鋒は、

隠居の命を受けた、物頭・赤羽又兵衛率いる300余の奇襲を受けた。
 

初めは不意打ちに驚いた小笠原軍だが、次第に数の優位を取り戻し、赤羽隊を押し返した。

「よし、やれい。」
そこへ隠居の合図により、北原玄蕃率いる農民たちが山上から、

用意した大岩・丸太を小笠原軍目がけて投げ落とした。
直撃を受けた者は即死、あるいは谷底に落ち、先鋒と本隊は落石によって分断され、
先鋒は勢いを取り戻した赤羽隊に次々と討たれた。

吹雪が晴れた後、小笠原貞慶が見たのは、

死屍累々たる先鋒の姿と、

山中から襲って来るおびただしい軍旗(実は偽の旗印を持った北原の分隊わずか70人)、

そして川向こうの白山の山中から鳴り響く鉄砲の音だった。
 

「しまった! もう本隊が帰っていたか!」

早合点した貞慶は、深志目指して逃げて行った。

「…………。」

「おい、勝ったぞ。勝どきを上げんか。」
「す、凄い…これがご隠居様の、”槍弾正”の軍略……。」
隠居こと保科弾正正俊は、この武功により家康から感状と名刀・手掻包永を授かり、
8年後の文禄2年(1593)、栄光に包まれながら80余年の生涯を閉じた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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