天正十年、本能寺の変が起こると、
その年の始め武田勝頼を滅ぼし、織田に平定されたばかりの甲斐では乱が起こり、
代官の川尻秀隆が殺害されるなど不安定な状況に陥っていた。
どうにか西から伊賀を超えて帰還したばかりの徳川家康は、
これを何とか抑え、あわよくば甲斐を手に入れる為に、
武田の旧臣である穴山梅雪(この時には京で死亡している)の残兵を、
甲斐に入れて鎮圧しようと考えていたが、ふと思いついて岡部正綱を呼んだ。
岡部正綱は元今川の旧臣で、今川が滅んだ後は武田に仕え、高天神城を守っていた。
更に高天神城が落ちてからは徳川に仕えていた武将である。
今川時代には家康と交友関係を結んでいただけでなく、
武田のことにもとても詳しかった。
話を聞くと正綱は言った。
「恐れながら申し上げます。甲斐に穴山の残兵を入れ、
力づくで鎮圧を行えば、きっと川尻の二の舞となり、
人心は安んらえず、乱れたままとなりましょう。
ここは私と、普請に優れた曽根下野守(曾根昌世・武田家旧臣)を甲斐に遣わし、
信玄公の菩提寺を修理し、勝頼・信勝親子の自刃した地に寺を営み、
両将の霊を祭れば、甲斐の民はきっと我々をただの侵略者とは見ないはず。
まずは民の心を掴むことです。」
家康はその意見を受けてその通りにさせた。
正綱と曾根昌世は、ほぼほったらかしだった勝頼達の遺体を納めると、
それらをねんごろに弔い、また武田家縁の寺社を修復して回りながら、
甲斐の国人達を訪ねて、徳川に降ることを大いに説得した。
結果、徳川は甲斐を上手く治めることが出来たのだった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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