武田信玄の病状悪化・死去により、武田の西上作戦が取り止めになり、
勝頼が相続するゴタゴタの間、
徳川家康は、天正4年七月十九日、長篠城を攻め落とした。
この徳川方の逆侵攻に勝頼は穴山梅雪を後詰として遠江に進行させた。
これを徳川軍は迎え撃ち、これまで一方的にやられっぱなしだった武田軍にとうとう勝利。
喜び沸き立つ徳川方の陣営のなかで起こった一幕を三河物語から。
榊原小平太(康政)の同心に上方の牢人がいた。
大久保治右衛門尉(忠佐)が手柄を立てて首を引っさげて帰ってくるところ、
その牢人が来て、仲間七八人に後ろから押さえさせ、治右衛門尉の首を奪っていった。
治右衛門は汗を握り腹が立ったが、首を取り返すことはかなわず帰っていった。
そのとき、榊原小平太が、
その牢人を召し連れて御前へ出たのを戸田之三郎右衛門尉(忠次)が見て、
急いで治右衛門尉のところに行った。
「治右衛門尉は知らないのか。あいつは只今、榊原小平太が召し連れて御前へ出て行ったぞ。」
「かたじけない。よくぞ聞かせてくれた。」
治右衛門尉は、彼の者が帰らないうちにと、御前へと急ぎ、三郎右衛門も、
「我も味方するぞ。」
と着いていった。
二人して御前に着いて治右衛門尉は、
「あの男が差し上げたという首級は、
皆見たであろうように、我が打ちとって引っさげて帰ってくるところを、
七八人がやって来てひったくったものです。
我らにかぎらず、久しい譜代衆は各々、知行を頂けなくても、譜代の主なので、
自分も他人も女子を顧みず、一命を捨てて戦働きをしてきましたが、
あのようなものは過分の知行を与えられ配下を多く持っているので、
いつもあのように働きましょうが、
小身の我らのような者は、いくら働いてもご奉公にはならぬことがあるでしょう。
しかしながら、彼等は待遇が良ければ御家にとどまりますが、悪ければ出ていきます。
譜代衆は、良くても悪くても御家の犬なので出て行かないのというのに、
彼のしてもいない手柄を認められる事は、一段と迷惑であります。」
と発言した.これに榊原小平太が、
「治右は謂れのない事を仰せられている。
我らの同心の手柄は歴然としているのに。
納得がいかぬ。」
と言えば、治右衛門尉は反論した。
「どちらが正しいかどうか、あなたがどうして分かるのだろうか。
その場に来ていないのに、いらざることをおっしゃりなさる。
見ぬ京物語はせざる物です。
どれだけ同心を連れていようとも、無かったことをあったことにはなるまい。」
そのとき、家康が命令した。
「治右衛門尉、余計な事は言うな。
我家ではお前の武辺を非難するものはいないだろうに。
我の存分まかせておけ。」
治右衛門尉はかしこまって御前を退出した。
件の牢人は、その場にいられなくなり、どこへでもなく行方をくらました。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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