小田原征伐において、山中城が陥落した時、
こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に加わっており、
彼らは頸百四、五十を得た。
彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、
周防守はこれを牧野右馬允(康成)に相談した。
しかし牧野は、
「はかばかしい頸を取ったわけでもない。
雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。
ただ頸の数だけ書き付けて、披露するのが良いだろう。」
周防守はこの意見に従った。
ところが、後で周防守の家来たちは、
「右馬允にだしぬかれた!
頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、
大いに御感にもあっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。
全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。
しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。
ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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