朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、
蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、
その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。
この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、
上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、
かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、
左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、
「先ず我が家中に迎えたい。」
と、彼を召し抱えた。
このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、
やがて蒲生家中でも屈指の存在と成った。
去る年も、蒲生氏郷より、米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き、
「百万石の仕置をしてもらいたい。」
と懇願された。
しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。
「では、誰に仕置を任せるのが良いか。」
と尋ねられ、
「蒲生四郎兵衛尉こそ然るべきです。」
と答えた。
これを聞いて氏郷も「私もそう思う。」と同意し、
米沢城は蒲生四郎兵衛に任された。
ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
蒲生四郎兵衛は左文に、
「あなたは筋目の者だからこそ、このように指図をしているのだ。」
と語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、
四郎兵衛の領地より逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、
左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が保護した。
ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、
左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、
文禄元年10月16日に押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、
その他大勢が討たれる事態となり、これにより事が大きくなり、合戦に及ばんとした。
左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。
さらに白石の蒲生源左衛門も、四郎兵衛と仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。
また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。
しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。
この時、蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、
蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が扱いを入れ、
無事に調停されたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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