蒲生郷可☆ | げむおた街道をゆく

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朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、

蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、

その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。

この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、

上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、

かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、

左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
 

しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、

「先ず我が家中に迎えたい。」

と、彼を召し抱えた。

 

このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、

やがて蒲生家中でも屈指の存在と成った。

去る年も、蒲生氏郷より、米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き、

「百万石の仕置をしてもらいたい。」

と懇願された。

 

しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。

「では、誰に仕置を任せるのが良いか。」

と尋ねられ、

「蒲生四郎兵衛尉こそ然るべきです。」

と答えた。

 

これを聞いて氏郷も「私もそう思う。」と同意し、

米沢城は蒲生四郎兵衛に任された。

ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
 

蒲生四郎兵衛は左文に、

「あなたは筋目の者だからこそ、このように指図をしているのだ。」

と語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
 

また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、

四郎兵衛の領地より逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、

左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が保護した。

ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、

左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
 

また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、

文禄元年10月16日に押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、

その他大勢が討たれる事態となり、これにより事が大きくなり、合戦に及ばんとした。

左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。

さらに白石の蒲生源左衛門も、四郎兵衛と仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。

また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。

しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。

この時、蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、

蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が扱いを入れ、

無事に調停されたという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 蒲生家臣団

 

 

 

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