蒲生郷安☆ | げむおた街道をゆく

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文禄元年(1592)、蒲生氏郷は、朝鮮の陣に備え、

会津から肥前名護屋に行くことになった。
 

出立に及んで氏郷は、重臣の蒲生左文郷可を呼び、

米沢城代として執政の職に着くよう申し渡した。

しかし、郷可はこれを断った。
「ならば、誰か他にお前の代わりが務まる者がおるのか?」
「四郎兵衛がよろしいかと。」

蒲生四郎兵衛郷安は、郷可と仲が悪かった。

郷可がそれを置いて郷安を推挙したことを
氏郷は良しとして、米沢城を郷安に授けた。
 

しかし一抹の不安を覚えた氏郷は、米沢に近い中山城を郷可に授け、
「当家に敵対していた者でも、良き者であれば召抱えよ。」

と二人に言い、九州へ向かった。

しばらくして後、郷可の家臣が米沢城下を通り過ぎようとした時、

郷安の手の者に囲まれ、米沢城に拉致されるという事件が起きた。
 

「おのれ、四郎兵衛! 殿に推挙した恩も忘れ、何をするか!」
「ふん、わしは殿の仰せに従ったまでよ。

殿は「良き者を召抱えよ」と申されたではないか。
わしの城下にいた「良き者」を城に連れ帰って何が悪い?」
「貴様!」

激怒した郷可は、実弟の上坂源之丞、郎党の上坂左介、松下半兵衛、若宮三郎兵衛、
松田七兵衛、寄騎の布沢勝左衛門、伊南弥五郎、横田某などに兵を集めさせた上に、
“米沢からの攻撃に備えるために”中山城を改築した。
一触即発の自体に蒲生郷成・真令(備中)らが調停に乗り出し、事は一応の決着を見た。

3年後の文禄4年、氏郷の急逝後、郷安は政務を独占し、

これを批判した氏郷の近習筆頭だった亘理八右衛門を郷安が暗殺すると、

再び他の重臣と郷安は対立。
 

この騒ぎが太閤秀吉の耳に達し、

蒲生家は会津92万石から宇都宮12万石に大減封され、
家臣団は散り散りとなった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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