永禄11年(1568)5月初め、武田信玄は駿河の今川氏真に使者を出し伝えた。
『今川殿が所領されている、東三河を私に下されよ。
東三河は信州伊那より続いている地である。
そこを私が持てば、氏真殿が以前から念願している、
義元殿の弔い合戦をなされる場合でも、
この信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからである。
ところで、昨今、松平元康という興味深い人物が勢力を広げ、今川殿への恩を忘れ、
元康の元という字も投げ打って、そのかわり全く別な、徳川三河守家康となり、
三河国の大半を支配していると聞く。
その家康に取られるよりも、この信玄に進呈してはどうか?』
この書状の内容に、氏真は返答した。
「信玄殿のお言葉、かたじけない。
しかしながら父・義元の弔い合戦については、信玄殿をお頼み申すには及ばない。
良い時期を見て、この氏真自身で目的を達するつもりである。
ことさら、氏真の敵である織田信長と、信玄殿が、
縁者に成られた(永禄8年の武田勝頼と信長養女との婚姻)と聞いては、
信玄殿ももはや、半ば敵であると考えるものである。
そのため、東三河が例え家康に取られたとしても、信玄殿に進呈する気はない!
それに、家康など小身の者故、今年でも来年でも思うままに退治することが出来る。
しかし信玄殿に東三河を渡しては、その後遠州までも取られることに成るだろう。
その証拠に、あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、
酒に酔ったふりをしてお取りになった。
我が父義元も、『信玄は謀略の才覚において恐るべき者だ。』と仰っていた。
信玄殿は、この氏真との叔父甥の関係などもはや無視されよ。
今後は書状の取り交わしも不要である!
あなたはこの頃も、家康の伯父である水野弥平大夫と親密であったそうではないか。
また、我が配下であった梶水彦介を甲府まで呼び、鉄砲10丁に甲府名物を添え、
さらに木綿の布200反まで与えて、
『信玄が三河に進出すれば手を引くように』
と言ったそうではないか!
私はそれを詳しく聞いている!」
実は去年の冬、氏真は水野弥平大夫を成敗した。
その時、信玄が水野弥平大夫に出した多くの書状を押収したのであった。
氏真はこの返書に、水野弥平大夫から押収した書状を添えて信玄に返した。
このため、今川と武田の関係は更に悪化した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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