天正13年(1585年)の年末頃、
那須家の重臣・伊王野資信は、大関家の侵攻を受けていた。
侵攻の口実となったのは黒羽城(大関氏居城)に程近い伊王野領内に、
新たに築いた前田弾正館にあった。
大関安碩(高増)はこれを、
「伊王野家による大関家への侵攻の前触れ。」
として伊王野攻めを決意、侵攻を開始したのである。
こうなれば老練な高増の独壇場である。
那須七騎で、那須家に継ぐ領地と動員を誇る伊王野家であったが、
大関家と婚姻を結んだ蘆野盛泰なども出撃こそしないものの、
伊王野領近くをうろつくなど怪しげな動きを見せたために、
兵力分散を余儀なくされた状態で大関勢との戦となった。
こうして有利な状況を生み出した高増は、大関清増(高増次男)を派遣。
結果として伊王野家は戦に敗れた。
戦後、伊王野家は3000石余りを大関家に奪われ、
大関家の那須家中での権勢はますます高まったのである。
もはや好き放題であるが気づけば那須家中殆どの家に高増の息がかかっており、
主君である那須資晴ですら大関を止める術を持たなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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